
彦根城

彦根城は、近江国犬上郡彦根(滋賀県彦根市)にある城。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡である。天守が国宝指定された5城のうちの一つでもある(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。
江戸時代初期、彦根山に井伊氏の拠点として築かれた平山城。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は名城であったが、直政は中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。このため琵琶湖岸に近い米原市磯に居城を移すことを計画していたが、1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山に彦根城の築城を開始した。
幕末に大老を務めた井伊直弼も、35歳までこの城下町で過ごしている。
延暦寺

延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にある比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。山号は比叡山。本尊は薬師如来。正式には比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)。
最澄(767年~822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録された。
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺と並んで平安仏教の中心寺院であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、多くの僧が若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。
また、「十二年籠山行」「千日回峰行」などの厳しい修行が続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
安土城跡

滋賀県近江八幡市には、織田信長の居城として有名な安土城跡がある。
1582年(天正10年)織田信長は、明智光秀の謀反により本能寺で生涯を終えた。この時残したとされる信長最期の言葉は、「是非に及ばず」とされている。 これは「善悪をあれこれ論じるまでもなく、そうするしかない、仕方がない」という意味である。
京都府の観光地
清水寺

京都市東山区清水1丁目にある北法相宗の大本山の寺院。本尊は十一面千手観世音菩薩。正式には音羽山清水寺と号する。平安京遷都以前からの歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つである。
宝亀9年(778年)に、大和国の興福寺の僧賢心(後に延鎮と改名)が、年齢200歳になるという行叡居士の残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。後に坂上田村麻呂が自邸を本堂として寄進した。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩の像を造り、共に祀ったという。この縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
本堂は1952年(昭和27年)に国宝に指定されており、「清水の舞台から飛び降りる」ということわざで有名な舞台の高さは約13mである。
二条城

正式名称は元離宮二条城である。京都市街の中にある平城で、足利氏・織田氏・豊臣氏による二条城もあったが、現存するものは徳川家の城である。江戸城の分身の役割として、京都御所・公家町および洛中の守護、家康上洛時の居城として造営した城である。
二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、江戸幕府による禁中並公家諸法度の公布。幕末期は徳川慶喜の居城となり大政奉還の上奏。離宮時代には大正天皇の行啓や饗宴の儀などが行われた。
明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は、1884年に皇室の「二条離宮」へ変遷した。その後、1939年(昭和14年)二条離宮は京都市に恩賜され、元離宮二条城と改称して現在に至る。
城内全体が国の史跡に指定されており、二の丸御殿が国宝に指定されている。本丸御殿をはじめ、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、小堀遠州の代表作と知られる二の丸庭園が特別名勝に指定されている。
1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に洛中唯一の城郭建築として「古都京都の文化財」として登録された。
金閣寺

鹿苑寺は、京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。本尊は聖観音となっており、内外に金箔が貼られていることから金閣寺とも呼ばれている。正式名称は北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である。
寺名は室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。義満の北山山荘を死後に寺としたものである。応永6年(1399年)に金閣寺舎利殿が完成したと推定されている。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。
また1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。
兵庫県の観光地
姫路城(ひめじじょう)

姫路城は、姫路市にある城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、ユネスコの世界遺産(文化遺産)リストにも登録されている。別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)。
姫路城天守のある「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。ここでは大国主命の船を火明命が嵐で転覆させた際に、積み荷の中から蚕子(ひめこ)が流れ着いたのが山の名の由来とされる。のちに「姫道」を経て「姫路」となった。
姫路城の始まりは、1346年頃の赤松貞範による築城とする説が有力である一方、赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なものだと考えられている。戦国時代後期の小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。
戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって、大規模な城郭へとさらに拡張された。
有馬温泉(ありまおんせん)

有馬温泉は、神戸市北区有馬町にある日本三古湯の温泉。枕草子の三名泉にも数えられた。また、室町時代には万里集九が草津温泉や下呂温泉とともに「三名泉」とし、江戸時代には林羅山もこれらの三温泉を「天下の三名泉」と記した。この地域は活断層が分布しており、透水性の高い断層破砕帯を流路として温泉水が噴出している。東西走向の断層からは低温泉、南北走向の断層からは高温泉が噴出している。
温泉街は六甲山地北側の紅葉谷の麓の山峡の標高350~500 mに位置している。大きな旅館やホテルは温泉街の周辺や少し離れた山麓、山中にある。
阪神甲子園球場(はんしんこうしえんきゅうじょう)

阪神甲子園球場は、兵庫県西宮市甲子園町にある野球場。阪神タイガースの親会社である私鉄の阪神電気鉄道が所有・管理・運用している。1924年全国中等学校優勝野球大会(全国高等学校野球選手権大会)の開催を主目的として開場した、日本初の大規模多目的野球場である。
当時のニューヨーク・ジャイアンツの本拠地であったポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われている。完成するまでの仮名称は「枝川運動場」であったが、完成予定の大正13年(1924年)が十干十二支の最初の組み合わせで縁起の良い甲子年(きのえねとし)だったこともあり、後に「甲子園大運動場(こうしえんだいうんどうじょう)」と命名された。
大阪の観光地
大阪城

大阪城は、大阪市中央区にあった城で、錦城(きんじょう)とも呼ばれる。天正11年(1583年)豊臣秀吉が、石山本願寺跡地に築いた豊臣大坂城の遺構はそのほとんどが埋没しており、現在見ることのできる遺構は、元和6年(1620年)徳川秀忠が築いた徳川大坂城のものである。これは、豊臣大坂城時代の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上に、さらに高く石垣を積んだことによるものである。大阪城内には、この石垣等に使用されている巨石が築城当時のまま残っており、一番の巨石は本丸桜門枡形にある蛸石で、重さは108トンと推定されている。
江戸時代には万治3年(1660年)、寛文5年(1665年)、天明3年(1783年)と三度も落雷による被害を受けている。特に一度目の落雷では、城内青屋門近くにあった焔硝蔵(火薬庫)に雷が落ちたため、貯蔵中の火薬に引火して大爆発を起こした。板倉重矩公常行記によればその爆発はすさまじく、青屋門の扉が14km程離れた暗峠(くらがりとうげ)まで飛ばされたとの記述がある。
昭和6年(1931年)竣工の復興天守は、平成9年(1997年)、国の登録有形文化財に登録され、一帯は大阪城公園として観光客に親しまれている。
世界文化遺産

堺市、藤井寺市、羽曳野市3市の「百舌鳥古墳群・古市古墳群」は2019年に世界文化遺産に登録された。
百舌鳥古墳群
仁徳天皇陵古墳(大山古墳)、履中天皇陵古墳、反正天皇陵古墳、いたすけ古墳、ニサンザイ古墳等、47基。
古市古墳群
誉田山古墳(応神天皇陵古墳)、仲津山古墳(仲津媛皇后陵古墳)、市野山古墳(允恭天皇陵古墳)、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵古墳)、野中ボケ山古墳(仁賢天皇陵古墳)、軽里大塚古墳(日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の墓)等、123基。
奈良県の観光地
法隆寺(ほうりゅうじ)

法隆寺は、生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。聖徳太子ゆかりの寺院とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
法隆寺がある斑鳩は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(奈良県)と河内国(大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、斑鳩宮の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺であった。
東大寺

東大寺は、奈良市雑司町にある、華厳宗大本山の寺院。本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代に聖武天皇が建立した寺である。
奈良時代には大仏殿のほか、東西2つの七重塔を含む大伽藍が整備されたが、855年(斉衝2年)の大地震で、頭部が落ちてしまった。中世以降には、2度の兵火で多くの建物を焼失しており、現存する大仏は台座などの一部に当初の部分を残すのみである。また現存する大仏殿は宝永6年(1709年)に規模を縮小して再建されたものである。

正倉院(しょうそういん)

正倉院は、奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の高床倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平文化を中心とした美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。
「正倉」とは、「正税を収める倉」の意味で、律令時代に各地から上納された米穀や調布などを保管するため、各役所に設けられたものだった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称していた。
正倉院が所蔵する宝物の9割以上は異国風のデザインを取り入れた日本産であるが、唐や西域、ペルシャなどからの輸入品もあることから、「正倉院がシルクロードの東の終着点」と言われる所以となっている。
和歌山県の観光地
高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)

高野山金剛峯寺は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院。
ぶつぶつ川

ぶつぶつ川は、東牟婁郡(ひがしむろぐん)那智勝浦町にある川。
粉白川の支流で、2008年に二級河川に指定されたことで、河川法上の川として日本で一番短い川となった。
長さは13.5m。
