熊本県の観光地

熊本城

熊本城は、肥後国飽田郡熊本(熊本市中央区)にあった安土桃山時代から江戸時代の城。別名「銀杏城」。

加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城だった。明治時代には西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失したが、 宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。

天守は1960年に鉄筋コンクリート造で外観復元され、内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっている。2000年以降は門や櫓、御殿の一部などが木造で復元された。

2016年4月の熊本地震の際に、多くの石垣が崩落したほか宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元建築が被災した。

尚、加藤清正は秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮半島で虎を退治し、漢方薬としても使われる虎の肉を秀吉に送ったとされている。

天草諸島

天草諸島は、熊本県と鹿児島県にまたがる諸島である。別称は苓州・苓洲(れいしゅう)。全体の面積は約1000km2、人口は126,445人。上島と下島を主島とする。下島は面積574.01km2であり、本州など主要4島を除く日本の島では8番目に大きい。

かつてキリスト教(カトリック)が広がり、キリシタンの島として知られ、現在も3か所の教会がある。

永禄9年(1566年)、修道士ルイス・デ・アルメイダが志岐氏当主の志岐鎮経に招かれ、キリスト教がもたらされた。志岐には教会が建てられ宣教師も来島し、永禄11年(1568年)と元亀元年(1570年)には宗教会議も行われた。当時、信者は1万5000人、教会堂は30あまりもあったという。

豊臣秀吉が九州平定を成し遂げると、肥後南半国の領主としてキリシタン大名の小西行長が下向するとその与力とされた。関ヶ原の戦いの後、敗れた小西行長は斬首され、天草は唐津藩の飛び地となる。領主寺沢広高は検地を行い天草の石高を4万2千石とした。しかしこれは実際の生産高の倍にあたり、そのため過酷な税の取り立てとキリシタンの弾圧が行われた。さらに飢饉が続いたことも要因となって、寛永14年(1637年)、島原・天草の乱が勃発した。


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