
佐渡金銀山(さどきんぎんざん)

佐渡金銀山は佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称である。なかでも相川金銀山の規模が特に大きい。鉱石は主に、銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。
『今昔物語集』に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段があり、佐渡で金が採れるという点に言及されている。11世紀後半には佐渡で金が産出することは知られていたようである。
天正17年(1589年)に上杉景勝により本間氏が滅ぼされ、佐渡は上杉領となる。相川金銀山は16世紀末に開発が始まったと考えられており、戦国時代には相川の金脈は未発見であった。江戸時代、慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。
人類がこれまで採掘した金の総量は、約18万トンとされ、オリンピックサイズのプール約4杯分に相当する。
新発田城(しばたじょう)

新発田城は、越後国蒲原郡新発田(新潟県新発田市大手町)にあった城で、北部を流れる加治川を外堀に利用した平城である。別名、菖蒲城(あやめじょう)。現在は本丸の一部を除く全域と古丸全域、二の丸の一部が自衛隊駐屯地として利用され、本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門と二重櫓の二の丸隅櫓が現存している。現存建築がある城跡としては新潟県内では唯一である。
鎌倉時代初期の新発田氏による築城と考えられており、代々新発田氏の居城となっていた。天正9年(1581年)、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こし、天正15年(1587年)、景勝により新発田城は落城した。
城郭跡には、初代藩主・溝口秀勝の銅像が建っており、下屋敷であった清水園(清水谷御殿)は国の名勝、同園内にある足軽長屋は国の重要文化財に指定されている。溝口家の茶寮であった五十公野御茶屋は国の名勝、新潟県の文化財に指定されている。
現在も城郭跡地の大部分が陸上自衛隊の新発田駐屯地となっているため、城と重なる駐屯地の光景を見て、「戦国自衛隊のようである」と感想を漏らす人がいる。

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